わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

山本昌代『デンデラ野』

 表題作読了。デンデラ野/姨捨山を気にするおばあちゃんよりも、おばあちゃんを疎ましく思ったり無視したり怒鳴り散らしたりイヤミを言ったりするほかの家族、すなわち鬱になりかけ成人病が気になる父親・利夫や、おばあちゃんをなにかと邪魔扱いする母親・文江、大学を中退しアルバイトを転々としヌンチャクを振り回して弟を病院送りにしてしまった姉・千代子、大学受験を控えノイローゼになりどうやらヌンチャクの後遺症があるらしい弟・透、にこそデンデラ野は必要であるらしい。彼らには未来がある。だがそれは不安に包まれ、光など見えない。おばあちゃんには未来がほとんどない。ひょっとしたらもう死が見えているのかもしれないが、逆におばあちゃんの今を生きる生の中に説明しにくい、希望に似ているが希望とは違う、絶望にも似ているが絶望とも違う何かが満ちているのだ。そんなおばあちゃんに、デンデラ野は必要ないのかもしれない。だからおばあちゃんは三男(=一家の父親)が死んだら四男の世話になるんだ、と悟ったようにさらりと、何の感慨もためらいもなく考える、物語の終盤にはデンデラ野に不安を感じつつ思いを寄せることをしなくなるのだ。そして孫である透は夜中に家を出て、近所のススキ野の闇の中へ消えていく。自らデンデラ野へ赴くかのように。
 と、そんなふうに読めたのだが、どうなんだろう。作中では「老人問題」という言葉が頻出したが、80年代の老人問題が00年代の高齢化社会問題と通じているかどうかは知らない(調べればいいんだけどさ)。ウバ捨てという発想は、21世紀の現代にはもちにくいなあ。捨てられた後、残る人間のほうが少なくなってしまうから。