わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

万年筆、入院す

 やってしまった。十時三十分ごろのことだ。アイデアを出すために万年筆「ザ・センチュリー マイカルタ」を握り、紙を睨みつけていたときだ。目がかすむのでメガネをはずそうとした。そこで、万年筆を握ったまなのがまずかった。からだの向きを変えたとたんに、握っていた手がなぜか滑った。万年筆が宙を舞った。落ちた。ごみ箱にあたり、カツンと音がした。嫌な音だ。慌てて拾い上げ、ペン先を確認する。やってしまった。ハート穴から先がくにゃりとくの字に曲がっている。よく見るとねじれながら曲がっているではないか。慌てて製造元のセーラー万年筆に電話する。購入店に持ち込むか、サービスセンターに送ってほしいとのこと。愕然とする。それからは、まるで仕事にならず。午後は打ち合わせが二本ほどあったが、一本目はプレゼンだったというのにうまく説明できなかった。二本目になるとかなり落ち着いてきたが、気づくと目がうるんでしまっている。じっとしていると、指先が小刻みに震えている。
 自分がこれほどモノに愛着をもっているニンゲンだとは思ってもみなかった。愛用する道具たちは、愛してはいるがあくまで道具であり、それ以上の執着をもつべきでない、お役御免のときがきたら、その道具に礼をいって処分する。そういう関係なのだと信じていた。ところが、いざその愛用の道具が壊れてみると、潜んでいた執着なのか、それとも道具への愛を越えた愛とでもいうべき感情なのか、よくわからんが、自分はそんな感情にとらわれ、翻弄されてしまった。近ごろは物欲がほとんどない状態で、ほしいと思うものはみな生活必需品か、自分の知識とし感性を磨くための書籍やコンテンツばかりであった。物欲がない状態を、自分では理想的と思っていた。無駄遣いを防げるからだ。そんな状態の中で、ぼくは道具というものを知らず知らずのうちに軽視していた。自分は道具に対する感謝の気持ちを忘れかけていたようだ。「ザ・センチュリー マイカルタ」は、己が身を犠牲にしてそれをぼくに伝えてくれた。そういうことにしておこう。
 夕方、打ち合わせのついでに東京・丸の内の「オアゾ」にある丸善本店に寄り、マイカルタを修理に出した。曲がり修正だけなら数千円だが、ペン先交換となると二万円くらいかかる、とのこと。そして修理期間は一ヵ月見ておいてほしいと言われた。うわあ。代金よりも、長年使い込んで自分の書き癖にあってきたペン先を取り換えられるのが痛手である。そして一ヶ月ものあいだ、使えないというのも痛手である。代用品を買おうかとも考えたが、あの万年筆以外のものを買うことが想像できない。同じ太さ(セーラーのMF。舶来物ならFに相当する)の万年筆を買うというのも、コレクターでない自分にとっては馬鹿げているように思える。結局、というか当然ながら、何も買わずに帰ってきた。
 修理に出すと、ある程度気分はサバサバした。だが帰宅後もまだ実は落ち着いていなかったようで、気づけば指先がこきざみに震えている。最低限の仕事だけこなして業務終了にした。集中力も欠けているようなので、読書もお休み。一晩寝てリフレッシュして、あとは万年筆がこの手に戻るのを楽しみに待とうと思う。なじんだペン先が取り換えられたとしても、もう一度「使い込んでなじませる」という楽しさを味わえると思えば、どうということはない。