わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

富岡多恵子『動物の葬禮|はつむかし』読了

「花の風車」読了。主人公は沖縄で九十七歳の老婆と出会う。彼女は親族の誰からも「おばあちゃん」と慕われ、いたわれ、しあわせそうに暮らしている。だが主人公は、そのおばあちゃんの娘にあたる知人のまえで、自分は絶対にあんなふうにはなりたくないと口走る。その暴言に込められているのは、歳を重ねることによって、すこしずつニンゲンが家族の枠組みの外側に追いやられてしまう、それこそが最大の悲しみではないか。自分は「おばあちゃん」などと呼ばれたくない、百歳になっても自分の名前で呼んでほしい、自分をひとりのニンゲンとして、いつまでも認めていてほしい、という老化による没個性への嘆きだ。主人公が若い頃に散々暴言を吐き散らしていた叔母は、老人ホームに入るとやがて、自分というものを失ってしまった。おおぜいの「おばあちゃん」の中のひとりでしかない。主人公は、おそらくOne of themにされるくらいなら、不幸せでもいいからいつまでも「自分」、名前のある自分でいたほうがマシだと信じているのだろう。
 近ごろは、子どもが生まれると母親が「●●ちゃんのおかあさん」「▲▲ちゃんのママ」と呼ばれるのをよく耳にする。それまでは名字や名前やニックネームで呼ばれていたはずなのに、子どもができると自分は子どもの付属品のようになってしまう。そんなことと本作のテーマが、重なるのかなあなんて思った。