わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

松浦寿輝『半島』読了

 かつての教え子である向かいにも、居候させてもらっていた中国人女性の樹芬にも裏切られ、冒頭に迷い込んだ(幻想のような)密室で(自分自身の象徴としての?)子どもを絞め殺す迫村。島を出る決意をするも、その後は幻想とも現実とも付かぬ(どちらかというと幻想なのだが、心象風景と読めなくもない)世界の中で、八方ふさがりな状況に陥ったまま、物語はカットアウトに近い形で終了となる。
 本作は、ただ何となくではあるが「自由」を求めた商社出身の中年大学教員が、職を辞して半島とも島ともつかぬおかしな地形の土地で新たな暮らしをはじめながら雄飛のチャンスを(やはりただ何となくではあるが)うかがうものの、結局「自由」など見つからない、いや、暮らしの中でさまざまな出来事を体験するうちに「自由」を求めていたことを忘れてしまうまでの物語、と解釈できなくもない。この過程には、自由とやらの本質が隠れているのではないだろうか。自由を求めれば、やがて袋小路に迷い込む。自由を求めるのをやめても、袋小路に迷い込むことに変わりはない。ならば、どう生きればいいのか。そのヒントは、迷路のような通路の先にあった、どうやら人身売買されているらしい子どもたちを収容する暗い密室での「子ども殺し」のシーンにあるのかもしれない。迫村は、子ども殺しを自分殺しと解釈する。すなわち、これは過去の自分の完全否定だ。自分を捨てることではじめて、影と自分自身に分裂していた迫村ははじめて自己同一化を成し遂げるわけだ。しかし、それでも自由はすぐに手に入らない。モノにするためには、苦々しい幻想と絞め殺してしまった自分自身の死体、そして怪しいひとたちばかりが蠢く「テーマパーク」のような島に戻って「客」であることをつづけるか、あるいは島を後にし目の前で燃え盛る橋を渡って東京のマンションに帰って「主」となるか……。
 幻想と現実の境目をアヤフヤにすることで、自由の本質を巧みに描いた傑作。

半島 (文春文庫)

半島 (文春文庫)