わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

仮面のような幻想を/果たして今は、ふさわしい時間か/新蕎麦を楽しむのが一番の目的だが

 いい夫婦の日だそうだ。対義として悪い夫婦というものがある、という前提で、それを覆い隠そうという魂胆だろうか。コピーライターをしているぼくがいうのもなんだが、この手のものからはマーケティングのニオイがぷんぷんと漂ってくる。そもそも、いい夫婦とは何なのか。わざわざ「いい夫婦」を名乗る時点で、よかろうが悪かろうが、実体として、あるいは本質として存在する夫婦というものに、仮面のような幻想をむりやりかぶせているような気がしてならない。もちろん個人が対象ではない。社会全体の夫婦という存在に対して、だ。
 夜中、枕元で花子がにゃあああにゃあああと大騒ぎするので目が覚めた。ああ、ゴハンがほしいのか、と気づくまでに数分は経っていたと思う。夢うつつだった。はいわかりました、と布団から抜け出し、ゴハンの用意をしようとするのだが、寝惚けているのでうまく行かない。猫缶はリビングの隅につくってある、逝ってしまったわが家のドウブツたちの写真を飾った場所に毎晩置いておくのだが、なぜか足はリビングに向かわない。気づけばアトリエにいたり、玄関にいたり、トイレにいたり。移動している記憶がまったくない。おっとここじゃなかった、と間違った部屋を出て、正しい場所へと向かおうとするのだが、そこでパタリと意識が途切れる。完全に消える。五度か六度は間違えたと思う。このあたりでようやく眠気が消え、そして気づく。果たして今は、花子にゴハンをあげるにふさわしい時間か、と。はじめて時計を見る。三時半、とある。ちょっと早すぎるなあ。騒ぎつづけている花子をなだめ、あと最低一時間は待て、と言い聞かせてから、もう一度寝た。意識が途切れるまでに、おそらく三十秒とかからなかったと思う。
 四時半に花子にゴハンを与え、七時にぷちぷちにゴハンを与え、八時半に起床。晴れ。結露、昨日より多い。より冷え込んだという証拠だが、喘息の症状は出ていない。少々鼻が詰まる程度。
 掃除を済ませ、十一時過ぎ、カミサンと外出。秋の恒例レジャーとなりつつある、深大寺散策へ。新蕎麦を楽しむのが一番の目的だが、紅葉も気になった。歩道に落ちる枯葉が踏まれるたびに立てるかさかさという音と足裏の感触を楽しみながら、赤い葉、赤い葉、と探しつづけた。寺の境内はモミジが多く、秋の風情たっぷり。寺にモミジはよく似合う。お堂の横に枝を広げる華奢なモミジの赤い葉が、小春日和の陽射しに鈍く輝きながら、弱い風に葉先を、ごくごく微かに震わせていた。そのすぐそばでは、猫がぐっすりと眠りこけている。背中いっぱいに陽射しを受けていた。


 三鷹経由、駅ナカで「松蔵ポテト」を買ってから帰宅。家についたら、ポテトで一息。そのあとは、延々と靴磨き。
 夕食は先日ゲットした揚げ玉を使ってお好み焼き。いい揚げ玉だと、お好みの味も変わるからスゲエ。