わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

石牟礼道子『苦海浄土』

 第一章、読了。水俣病患者が続出した地域の、患者や医者、地域住民たちの日常が俯瞰的に描かれていくなかで、次第に焦点はいくつかに絞られ、最後は日露戦争で出兵し活躍した過去をもち、漁師として生き、現在は三合の焼酎とおいしい生魚、そして剣豪小説を楽しみに生きていた仙助老人の罹患と死に絞り込まれてゆく。少しずつピントを絞ってゆく手法が、逆に仙助老人の一生を丁寧に描写するよりもはるかになまなましく生と死をあぶり出しているように読めた。
 石牟礼さんは過度なセンチメンタリズムに陥ることなく、しかし強烈な批判意識と使命感をもって、この作品を書いているように見える。そんな部分が垣間見えた箇所を引用。妙に心に刺さった。

 突然、戚夫人の姿を、あの、古代中国の呂太后の、夕夫人につくした所業の経緯を、わたくしは想い出した。手足を斬りおとし、眼球をくりぬき、耳をそぎとり、オシになる薬を飲ませ、人間豚と名付けて便壷にとじこめ、ついに息の根をとめられた、という戚夫人の姿を。
 水俣病の死者たちの大部分が、紀元前二世紀末の漢の、まるで戚夫人が受けたと同じ経緯をたどって、いわれなき非業の死を遂げ、生きのこっているのではないか。呂太后をもひとつの人格として人間の歴史が記録しているならば、僻村といえども、われわれの風土や、そこに生きる生命の根源に対して加えられた、そしてなお加えられつつある近代産業の所業はどのような人格としてとらえられねばならないか。独占資本のあくなき搾取のひとつの形態といえば、こと足りてしまうか知れぬが、故郷にいまだに立ち迷っている死霊や生霊の言葉を階級の原語と心得ているわたくしは、わたくしのアニミズムとプレアニミズムを調合して、近代への呪術師とならねばならぬ。

苦海浄土 (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 第3集)

苦海浄土 (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 第3集)

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