「群像」2020年10月号掲載。読了した。
過去の事実に、現在における大きな歴史的変化や事件の「片鱗」や「兆候」を見出すこと。この、バックキャスティング的な歴史観が史的唯物論、ということになる、のかな。そして、この構造は、実は「最後の審判」とおなじ「過去へのまなざし」によるものである…という考え方は、まさに著者のライフワークになっている「〈世界史〉の哲学」にもつながっている。
著者はスターリン主義における進歩史観や歴史主義もまた、実は「最後の審判」的構造の呪縛を受けているという。ただし、史的唯物論とは決定的な違いもある。それが、最後の審判の視点自体が固定的ではなく、常に闘争の過程にある、という点。スターリン主義なら真の共産主義社会の確立、ということになるのだろう。それは固定的な概念であり、変化はしない。しかし史的唯物論ではそのゴール的な位置そのものが流動的、ということ…という解釈でいいのだろうか。よくわからなくなってきたよ。