七時起床。いや、身体は起こしたが十分近くはそのまま寝ていた。
午前中はせっせと仕事。せっかくの日曜でも曇り空なら割り切って仕事ができる。天気がいいからどこかにでかけたい、という欲求よりも、天気がいい、空が澄んでいる、ただそれだけのことのほうが、ぼくにとっては大切なことのようだ。空の色、ただそれだけに一日の気分をブンブンと振り回される。
午後から「Rosso」で髪を切る。担当の原田氏、美容の専門書を出したらしい。店を出たころから雨が降りはじめた。色づきはじめた広葉樹の葉の鮮やかな光が、重い雲に飲み込まれる。
夜はテレビ東京の大食い選手権を見る。スゲエ。
泰淳「ひかりごけ」読了。ペキン事件、すなわち戦中の羅臼での極寒状況における人食い事件を知った語り手が、大岡昇平「野火」や野上弥生子「海神丸」と比較して、罪悪についていかのように分析する箇所がある。
《一、たんなる殺人。二、人肉を食う目的でやる殺人。三、喰う目的でやった殺人の後、人肉は食べない。四、喰う目的でやった殺人の後、人肉を食べる。五、殺人はやらないで、自然死の人肉を食べる。/この五つを比較すると、二は一よりも重罪らしいし、四は三よりも重罪らしい。ただし一つまり、たんなる殺人と、五つまり、殺人はやらないで自然死の人肉を食べるのと、どちらがより重い罪かとなると、そんな比較が馬鹿馬鹿しくなるほど難しい問題になってしまいます。》
泰淳には、人食いが非道徳的だとか極限状態にあるなら生きるための人食いもやむを得ないとか、そんな考察を物語の中で展開しようというつもりなどさらさらない。そんなことを超越して、そういった状況も含めて、大なり小なり罪を犯しつづけなければ命をつなぐことができぬ悲しい存在である人間、いやすべての命あるもの、そしてそれらの連関としての世界、その真理を見極めたいという大きな視点。それが泰淳のあらゆる作品の根底に流れる大きなテーマだ。ラストシーン、部下の人肉を喰った罪に問われた船長が裁かれる法廷の場面で、船長は人肉を食べたことのない人、あるいは自分の肉を食べられたことのない人に裁かれることを「我慢している」という。裁くなら、自分の肉を食べてほしいと主張する。この発言で裁判を混乱に陥れた彼の要望は、どこかゴルゴタの丘のキリストを思わせる。そして、船長の頭部は、人食いをしたものだけがそうなるといわれている、緑金色の光を放ちはじめる。語り手がマッカウシの洞窟で見た「ひかりごけ」のように。この光の輪は、船長が、人食いの善悪を超越したレベルで、他の生命を食らうことでしか自らの命を維持することができないというあらゆる生命の真理であり「業」を、宿命的なまでに苛酷な形で体験した者であるという証である。彼は人肉を食ったことで、生命の悲しみを本質的に理解した、という一点だけにおいて、裁判官よりも検事よりも弁護人よりも、すこしだけ救いに、そして神に近づいている。彼の行いが間違っているか、間違っていないかはここで関係ない。
人間とは、宿命的・原罪的な悲しさを背負いながら、その悲しさをすこしずつ理解することで真理を見つけ、真理の向こう側にある何かを探すために生きる。それもまた悲しみなのかもしれない。それでも人間は生きつづける。泰淳は、そんなことを書きたかったのだろうか。
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