わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

猫は怒り、叫び、怖がる。ひとは嘆きつつ、平安を願う。

 七時起床。午前中のうちに事務処理を全部済ませようと銀行まわりに出かけ、仲間由紀恵がCMに出演する「ワンダモーニングショット」を飲みながら帰ってきたところ、花子の様子がおかしい。腰が低く、尻尾を付け根から床へ、弧を描くようにして垂らしている。瞳孔が開きぎみだ。耳もいつもより左右に開いている。だが威嚇はされない。どうしたのだろうとカミサンに話を聞く。隣のJさん宅に住む花子の娘・みかんが柵を越えて我が家のベランダに侵入したそうだ。猫が大好きな麦次郎は、窓越しにみかんを見つけると親しげに、とはいえ硝子があいだにあるのだが、近づいていき挨拶でもしようとしたのだろう、ところがそこで、花子の血を引く短気で臆病なみかんは麦を、シャーッと威嚇したらしい。そこで驚いた麦次郎は、つい交戦体制となり、まけじと威嚇のおたけびを上げたようなのだ。そこまではよい。問題はその先だ。書斎にいた花子が、麦次郎の叫びを聞いた。よく知っている同居猫の親しげな呼びかけではない。コワイ雄猫の雄叫びだ。花子は怖がった。以前気を狂わせんばかりに脅え、猫にもひとにも、あらゆる存在が怖くなり、信じられなくなり、小便をちびりながら引きこもったときの記憶がよみがえったのだろう。また怖がっている。記憶は徐々に戻ってきたようだ。最初は大丈夫、ちょっと怖がっている程度かと思っていたが、時間が経つにつれ、ひとに威嚇するようになった。つまらないきっかけで猫との信頼関係が壊れてしまうのは悲しい。だが、もっと深い部分、トラウマより深い部分、魂の奥底では、必ずぼくらはつながっているはずだ。コイツらはただのペットではない。などと書くと溺愛する馬鹿飼い主ようではばかれなくもないが、こうしていっしょに生活するということに、必ずなんらかの意味がある。ぼくはそれが知りたくて、花子や麦次郎と暮らしつづけているのだ。花子を信じつつ、しばらく書斎やアトリエには入らないようにして、花子が冷静になるのを待った。仕事はリビングで行った。先日購入したHPのノートPCがぼくを助けてくれた。
 完全に落ち着くには、夜になるまで待つ必要があった。こうして日記を書いている翌日の朝は、もういつものようにぼくのお古の、今は花子の椅子兼ツメトギと化している事務用チェアーの上で、クルリとのの字に丸まってスヤスヤ寝息を立てている。
 波乱万丈をつい求める癖があるようだ。だが実際に危機に直面すると、しり込みする。そんな弱さを、花子は身をもって教えてくれているのだろうか。もうそんな必要はない、と言いたい。平穏平安な毎日こそが実は理想であることも、最近はわかりかけているのだから。
 読書はできず。