呆れるほどのスローペースで、時間があるときだけ読んでいる。現代詩は、無理やり時間をひねり出して読んだりしちゃいけないと思っているので、どうしてもこうなる。
もっとも、今日ふれておきたいと思ったのは比呂美ねーさんの詩ではなくて、上野千鶴子のエッセイのほう。「オナニー」をテーマにした「風と木の詩」がめちゃくちゃおもしろかった。メルロ=ポンティの現象学における皮膚感覚へのこだわりから、三島由紀夫の囚人的フェティシズムへの鮮やかな展開は、読んでいて気持ちよかったのだ(って、性的にという意味じゃないからね)。自慰行為とはストレートな自己愛ではなく、むしろ自己否定的な感情に支えられていることに気づかされる。だからオナニストの三島は自害するしかなかったのだ(と断定するのは短絡的過ぎるけどさ)。しかも、他人の手を借りて。他者による自害……。ちょっと長いけど引用。
性交を、他人の身体を使ったオナニーだと考えてみる。「触っている身体」の代わりに「触られている身体」について感覚を集中してみる。メルロ=ポンティは、「触っている身体」を「触られている身体」から分別することは不可能だとわたしたちに教えた。(中略)だが、もしその身体感覚が他者に属するものだとしたら? 他者が感じている身体感覚を、どうやって知りうることができるだろう?
(中略)
メルロ=ポンティが身体感覚や皮膚感覚に執拗にこだわるのは、個人が身体の表面にまでバーゲンされてしまった後のことだ。現象学が対象とした「現象」は、せいぜい「皮膚の表面で(感覚の上で)起きること」に還元されてしまった。それだけは疑わない、という約束のもとで。
人間が「皮膚の囚人」だという考えを、誰よりも明快に示したのは三島由紀夫だ。『鏡子の家』の中で、主人公の若い男は寝ている間にその愛人の女性から剃刀でわきばらを傷つけられる。鋭い痛みに目覚めて一条の傷口から自分じしんの血がにじみ出るのを眺めながら、男は、皮膚の内側にまで届こうとした相手の女の熱い関心を、自分に対する「愛」だと感じる。
だが、このグロテスクとカリカチュアの中にしか「愛」も「関心」もないことを、ボディ・ビルにいそしんだ「肉体の囚人」、三島はよく知っていたにちがいない。だからこそ、自分ではない他人に、皮膚どころか首を伐らせるという死を、彼は選んだのだ。「愛」の証として? 不可能なオナニスト。せっかくオナニストでありたかったのに。オナニズムには、いつも「不可能な」という背理がつきまとう。それは自分を自分で愛せないナルシシストと同じ背理である。
現象学、メルロ=ポンティ……。懐かしいなあ。学生のころお勉強したけど、現象学の本なんてもう十年以上開いていない。
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