わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

保坂和志『残響』

 九十年代に発表された中篇二作品を収録。往復で一冊分まるっと読んでしまった。
 保坂和志が語られる場合、最近は『カンバセイション・ピース』ばかりが扱われるが、この作品を読んで、これこそ最高傑作ではないかと思ってしまった。いや、単にツボにはまっただけかもしれぬが。ちなみに、ぼくは『カンバセイション・ピース』よりも『季節の記憶』のほうが好き。
 別の空間で別のことをする数名の男女の「想い」を別々に描きつつ、その中からうまく共通の接点を拾い出すことで、目に見えない連帯感、愛情、あるいはその逆の感情などを描いた傑作。表題作「残響」では、スピリチュアルな世界観や用語、考え方に依存することなく、人間の魂や共時性、運命、存在意義や存在証明などを語ろうとしている。そのためには、共通のイメージや記憶、想いなどから、「愛しい人」を、生きた現実の存在として描かなければならない、と作者は考えたのではないだろうか。しかし、その「愛しい人」の存在を、そしてその人物の記憶やイメージなどを直接描いてしまっては、「共通の想い」というスピリチュアルな罠にたちまちはまりこんでしまう。だから作者は、「愛しい人」を複数の他者の口から語らせた。つまり、本作では作品全体の鍵を握る登場人物が、最後まで不在のままなのだ。この「主役の不在性」こそが本作のもっとも評価すべき点。巻末の解説では評論家の石川忠司氏が、本作を「『音楽の神』によるハーモニーとしての共同体」と評していたが、うーん、なんか違うような。これって印象批評じゃん、と思ってしまった。音楽に喩えるとするなら、本作は主旋律不在の弦楽四重奏、といったところか。
 スピリチュアルを否定するようなことを書いたが、個人的には霊的な世界の存在は信じているし、好きだ(でなければ、わざわざ大物主命を祀っている神社まで遠路はるばる行ったりしない)。それに、ぼくはほんのちょっぴりだけれど他人より霊感が強いことも自覚している。だが霊的な能力を何かにつけて不自然なほどにアピールしたり(体験として話す程度ならいいんだけどさ)、あらゆることを霊的なコンテクストで語り尽くそうとする「スピリチュアル至上主義」は大嫌い。石川忠司氏の解説で、スピリチュアル=オカルトに関するおもしろい記述があったので引用。とても共感できた。

 概してオカルト的な思考がつまらないのは、その素朴さや単純さや短絡的なアイディアがまずいのではない。(中略)オカルト信奉者は皆んなが集う場所での主導権を握ろうとちんけな権力意志をむきだしにしているからこそまずいのだ。(中略)
 オカルト的な思考は自らの権力意志を満たすことに夢中になって、世界の偉大な構造、世界そのものの理解へとつながるかも知れないさまざまな可能性をすべて握り潰しているのではないか。例えば宇宙とか世界とかの仕組みについて「心のすごく深いところでは自分一人ではなくてみんなとつながっていて、人間だけでなくて動物とも自然とも交流している」と有難そうに説明するとき、オカルト信奉者が密かに自分をその「すべてと一体となった世界」の潜在的支配者に見立てているのは明白だ。
 反対に、思考にいかなる聖域も設けず、なるたけ「主観」を排し世界の構造の理解へとつながる可能性を発展させる傾向こそ唯物論=科学(後略)

 学生時代はマルクスにちょっとかぶれたりもしたが(今考えると馬鹿みたい。ありゃハシカだな。もうすっかり忘れました)、唯物論ですべてが語れるとは思っていない。要するに、バランスなんだろうなあ。

残響 (中公文庫)

残響 (中公文庫)

カンバセイション・ピース (新潮文庫)

カンバセイション・ピース (新潮文庫)

季節の記憶 (中公文庫)

季節の記憶 (中公文庫)