「群像」六月号掲載。最後のテーマは「現在うという謎」。ぼくは未読なのだが、伊藤整の『街と村』という作品から、歴史の本質をつかみ、さらには歴史と言語の関係性に肉薄しようとする。というよりは、歴史と言語の緊密な関係、言語によって成立させられている歴史のあり方を、小林秀雄やデリダの思想を通じて語ろうとしている。言葉で書かれるからこそ、歴史なのだ。書かれなければ時の流れのなかで生じたさまざまな事象や現象は、歴史として記憶されることも語り継がれることもなく、そこには善悪を基準にした賞賛も批判も生じない。そもそも、善悪という概念自体が言葉なしには存在しえないのだろうけれど。気になった部分を引用。
言語はその深部において常に政治の力学を生きている。いや、政治はその深部において常に言語の力学を生きている。歴史解釈はその一例に過ぎない。歴史教科書の記述が深刻な問題になるのは必然だが、しかし問題になること自体がすでにその終りを示唆している。歴史の魔術は言語の魔術に等しい。『町と村』は他社の解釈への抗い、しなわち解釈をめぐる闘争、承認をめぐる闘争こそが小説一般の主題であることをほとんどあからさまに示しているが、歴史教科書問題にしてもほとんど同じことだ。
歴史事実など歴史解釈の前ではほとんdの無意味に近い。歴史事実をもたらすのは歴史解釈であり、歴史解釈は政治の力学、言語の力学として生成し続けるのである。
そして三浦は、歴史解釈の対象である「過去」こそが、孤独=幽霊の正体である、と言おうとしている。もいっちょ引用。
『街と村』が生々しいのは人間の本質として幽霊が描かれているからである。にもかかわらずその解釈が最終的には拒絶されているからこそ恐怖すなわち幽霊なのだ。(中略)幽霊はみな自分が何ものであるかを知らない。ただ無数の解釈が徘徊するだけだ。だが、言うまでもなく、自分が何ものであるかを知らないのは幽霊ではなく人間のほうなのだ。自分が最大の他者なのである。幽霊はその表象にすぎない。(後略)
解釈を拒絶されるものが幽霊であるとするなら、一方的な理解、一方的な把握が強いられる歴史こそ、巨大な幽霊である、と言えるのかもしれない。
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