「群像」2020年7月号掲載。読了。空間の美術とも言えるインスタレーションと新型コロナウイルスの関連性についての小論かと思いきや、東浩紀、ドゥルーズ,ハイデガー、ロックなどの思想を借りながら、空間(と隠喩・換喩)についての、存在論やコミュニケーション論にも片足突っ込んだような、かなり重たい論考になっている。そして、それが今回のパンデミックに、社会学的に結びついていく。少し引用。
空間とはpossibleなものの空間であり、それは放っておけるということと(あてもなく)通貨できるということにおいてpassableだ。そもそも可能と不可能は対象な関係にない。不可能なものは絶対にできないが、可能はものはありうるがそれはたんにありうるだけだ。そこにはミニマムな複数性がすでに埋め込まれている。そしてそのつどの可能なものに私がくっつき、それとともに私は「いてもいいし、いなくてもいい」ものになる。パンデミックによってどこにいてもそこが「いるべき場所」か「いてはならない場所」のいずれかでしかないような状況において、あるいはもっと広く、つねにSNSやGPSや閲覧・購買データのトラッキングによって「そこにいるのかいないのか」、「どこから来たのか」と探られるような状況において求められるのは、どこへ行ってもおなじだという居直りでも、ユートピアとセットになったグローバリズムでも、あるいは独りで閉じこもるプライバシーの権利主張でもなく、いてもいなくてもよくなることではないだろうか。
「私」の居場所という空間、そして可能性の選択という行為が、実は「私」の意志や存在を曖昧化している。それが今回のパンデミックに顕著に現れている、と考えられる…ということかな。