わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

切れ痔と狂言

サイボーグ00萬

 八時起床。目覚めても部屋の空気の冷たさを感じないのは、いつもよりおそい朝だからか、それとも外気が暖かなのか。窓を開ける。冷えた風は吹き込まない。空を見上げる。霞んだ青はいつもどおりの冬の空だが、気のせいか昨日より呑気な雰囲気がある。ベランダから見える、庇と向かいの家の屋根とに天地を切り取られた狭い空に、小さな、しかし妙に形のはっきりとした、ソフトクリームを横倒しにしたような雲が、ゆるやかに南から北へと流れていくのが見えた。
 午前中は、ちょっとだけ仕事。それからアニメ『あたしンち』。見終わったあとに排便。紙で尻を拭いたら、真っ赤に染まっていた。そう言えば、便が出るときに少し痛んだ。便座から立ち上がり、便器の中を見る。おそらく最初に出てきた部分だろう、一番下になっている便の、先端が5センチほど赤黒く染まっている。水面には、血だ。血が溜まり、水に溶けずにぷかぷかと浮いている。ふたたびしゃがみ、念入りにウォシュレットし、尻を拭き、トイレを出た。痔である。まいった。あわてて午後から診察してくれる肛門科を探す。西荻にひとつ見つけた。昼食後、尻をかばいながら自転車でそこに向かう。すぐに診てもらえた。下半身だけ脱ぎ、もちろんパンツも脱ぎ、診察用ベッドに横臥した。この病院ではM字開脚状態で肩倒立するような、あの屈辱的なポーズをとる必要はないらしい。肛門にゼリーだかワセリンだかを塗られ、何か二度ほど挿入された。肛門の深いところ、腸の浅いところがかき混ぜられるような感覚が気持ち悪いが、ハアと息を吐きながら我慢した。脱力私邸内とより痛むのだ。診察結果は、切れ痔である。長時間座りっぱなしの作業で肛門に血がうっ血する。三年前もおなじ診察結果だった。肛門に挿入して使う軟膏を三週間分処方してもらって、家に帰った。

 十五時、外出。三鷹へ向かい、公会堂で「東西狂言の会」を観る。関東は野村万作・萬斎、関西は茂山千作・千五郎が、競演する。実は狂言ははじめてであるが、要するに昔のコントである。ただ伝統が長い分、形式が美的なレベルまで高められている。芸も磨きに磨かれている。躰の動き、台詞回し、間の取り方に無駄も不足もない。感心していると、笑える瞬間が訪れる。笑う。笑いながら、感心する。感心して、笑う。その連続だ。番組(演目)は三曲(狂言ではネタを一曲二曲と数える)。野村万作による「柑子」は、駄洒落ネタだ。短いが、高尚。古典を心得ていないと笑えないから、教養のないボクには予習が必要だ。茂山千作・千五郎による「月見座頭」。満月の夜、月見の替わりに虫の音を楽しむ座頭と上京の男が意気投合し酒宴となるが、別れたあと、上京の男は別人を装い、座頭をいじめる。いささか後味の悪い話だが、中盤の盛り上がりは笑いの連続だ。座頭、視覚障害者をいじめるというのは、松岡正剛流に言えば、欠陥のある弱者を差別すると同時に神聖視もする、いや健常者より欠けている部分があるがゆえに、一歩神に近い位置に彼らがいるという畏怖のごとき感情や考えが芽生え、それが逆転し差別につながってゆく、ということか。虫の音に風雅を感じる座頭は、確かに両目の見える上京者より、一歩自然に、さらに言えば神に、近づいている。それは無意識な嫉妬と羨望の対象となるのだ。弱者にこそ、力がある。それをこんな意外な場所で実感できた。そしてトリは我らが狂言サイボーグ、「にほんごであそぼ」でもおなじみ野村萬斎による「首引」。鎮西八郎為朝なる武将が印南野で鬼と出会う。鬼の娘のニンゲンの食い初めにされそうになるが、力比べで負けたら食われると申し出、なんやかんやなんとかその難を逃れる、という他愛もない話だが、鬼の親子の情愛に満ち過ぎた会話と鬼の娘のウブな感覚、そして鬼の下っ端の我のない間抜けなまでの従順ぶりは、まさに上流階級の馬鹿親馬鹿子の象徴。ニンゲン以上にニンゲン臭くて、爆笑である。現在でもマンガやコメディは上流階級への批判精神に満ちていることが多いけど、当時もいっしょだったんだろうなあ。
 吉祥寺に寄って「カルディ」や「ロヂャース」などで買い物し、西荻のインド料理店「ガネーシャ・ガル」でカレーを食べてから帰宅。
 
 遠藤周作『海と毒薬』。物語は、米兵の人体実験にかかわった者たちによる手記へと移る。人体実験そのものの様子をまともに描かないところに、作為が満ちている。いろんな視点で、いろんなことを書きたい。若き遠藤周作には、そんな思いがいっぱいだったんだろうなあ。さすが、「違いがわかる男」。ダバダ〜(これがわかるひとは、おそらく三十代半ば以上ですね)。