わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

古井由吉『辻』

 連作短編。地理としての「辻」と、登場人物たちの人生の、あるいは感情の「辻」とが交錯しあう。そんなイメージが次々と展開される…らしい。
「辻」読了。男子高校生が、父親から交際する彼女がふさわしくないといわれのない非難を浴び、その結果父子関係が破綻してゆく。父親は運命だの相性だの占いだのといったことに翻弄された結果、息子への愛情、感情が破綻してゆく。息子は父への恨みを募らせる。辻から、父子はそれぞれ別の道を歩いてゆくことになる、ということか。考えれば、おかしな辻だ。おそらくは正しい道が、平穏無事な将来へとつながる道があったのだろう。だが、一時の感情がそれをたちまち塞ぐ。いや、見えてはいても、そこに足を向けさせない、なにか得体のしれない力が働いているのだ。ひょっとすると、その力は自分の中に最初からあったのかもしれない。人は、それを「狂気」と呼ぶ。狂気とは、精神が破綻することではない。
 辻に対する象徴的な描写があったので引用。

 風の中を、風に膨らんだ大男が行く。風の合間に、辻にさしかかる。そこで立ち停まり、どちらへ行ってもよいようなものを、目的を知っているかのように道を選ぶのは、前から惹かれるか、後ろから押し出されるのか、とその感じ分けもつかず、徒労感に堪えず、風のまた吹き出したのにまかせて足を踏み出す。こうして行くうちにやがてひとつの辻に出会って、辻そのものが生涯の道しるべとなり、徒労感は去り、足取りは定まるのではないか、と期待を先へ送る。しかしまた、その辻は実はとうに知らずに通り越していて、取り返しがつかず、投げやりな踏み出しは背後へ置き残される弁明の粘りつきであり、そのしるしに三歩目にはおのずと決然として、自身にも他人にも容赦のない大股の歩みになっているのではないかと疑う。
 男の影はこちらへ向かってくる。呻くような息づかいの聞こえそうになるまで近づいては斜めにそれて行く。繰り返し、同じ辻にかかる。
 辻で道の尽きるのを願っている。