「群像」11月号掲載。近世のキリスト教世界における、エルサレム=中心を目指す志向と、大洋=縁を目指す志向は決して対立するだけものではなく、むしろ深く関係しあっている、と著者は説く。
キリスト教の聖地への求心化する志向性と異邦の領域を彷徨する遠心化する志向性は、一方では対立的だが、他方では直結しているのだ、と。後者の志向性は、前者の志向性の単純な否定や拒否ではない。前者があって、初めて後者が可能になっているのだ。
とても興味深い仮説なのだが、残念ながら明確な根拠は示されていない。ただ、聖地への旅には「過剰なもの」が含まれている、と大澤氏は書いている。それが何なのかが見えれば、大航海の論理の内実が見える。
残念ながら今回は資本主義や社会構造の見えない本質を鋭くえぐり出すような、エキサイティングな論説や洞察は展開されなかった。それくらい難しいテーマということなのだろう。