「群像」2020年6月号掲載。だらだらと読み進めている。主人公と中国人の友人は、チベットを中古のブルーバードで延々と突き進む。「根無し草」のような感覚を「言葉」という側面から語る世界はリービ英雄ならではなのだけれど、なんとなく文体というか、作品がまとった世界が、佐伯一麦と共通している。この作品に限ってということではなく、多くの作品に同じ空気が流れている気がする。「外側から見て語る」という姿勢が強いからなのかな、と勝手に分析しているが、どうなんだろう。リービ英雄の作品は、どこに行っても、どんな体験をしても、彼は世界を客観視している。認識と理解のために利用する言葉すら、ヨソから借りてきた、という印象。近年の佐伯一麦も、ある大きな災害や悲愴な出来事に対し、一定の距離を取って観察している感じが強い。自身の体験が延々と、回想も交えながら語られ、そこには強い怒りや悲しみも含まれているというのに、自分の捉え方が妙に冷静。その冷静さの中に、新たな可能性や、別の選択肢が隠れているような気がする。