わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

目をそらしていた。コワイからだ。

 今朝も五時四十分起床。雨。天気が悪い日は行動しないという本能が働くのか、いつもなら追いかけっこをしてくれとせがんでくる葵が、大人しく、猫らしく寝ている。

 今日も完全オフの日曜日。のんびり読書。午後は雨が止んだタイミングでウォーキングへ。

 二十時、夕食を食べながら「日曜美術館」の再放送。谷内六郎。この人といえば往年の「週刊新潮」の表紙。あの雑誌はぼくが子どものころにTVCMをやっていたのだが、始まると必ず目をそらしていた。コワイからだ。当時はなぜコワイのかなんて考えなかったが、今回のオンエアを見て、描かれている子どもたちが悲しそうで、深い孤独を抱えこんでいるようで、そして描かれている世界が親世代にはノスタルジックに感じられるだろうが、ぼくらからすると微妙に遠く、こんなところに連れて行かれたら怖くてたまらない、という気持ちが沸き起こってしまうからだと思う。絵の世界がピタリと静止しているように見えるのにも恐怖を覚える。止まった感じの絵なんてたくさんあるのだが、あの世界が止まったまま、というのは、とても閉鎖的な印象をさらに助長させているようで、なおさら怖くなる。あの作品にはいまだに馴染めない。

www.nhk.jp

www.yokosuka-moa.jp

 

 三浦雅士『孤独の発明 または言語の政治学』、ようやく読了。いろんな部分に余裕がある時しか読まなかったので、とても時間がかかってしまった……。作中で何度も言及されている、というか、本作の背骨の役割を果たしていた大岡信の『うたげと孤心』、読もうかな。

 
 
 
 
 
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