わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

高橋源一郎『ニッポンの小説 百年の孤独』

 三章め(になるのかな?)の「ちからが足りなくて」。散文=正常(な語法の文章)、詩=異常(な語法を含んだ表現)という一般的な認識を覆す荒川洋治の論考が引用されていた。タイトルは、「散文は『異常な』ものである」。ぼくも引用。

 白い屋根の家が、何軒か、並んでいる。
 といのは散文。詩は、それと同じ情景を書きとめるとき、「白が、いくつか」と書いたりする。そういう乱暴なことをする。ぼくもまた、詩を読むのはこういう粗暴な表現に面会することなので、つらいときがある。だが人はいつも「白い屋根の家が、何軒か、並んでいる」という順序で知覚するものだろうか。(後略)
 散文は、つくられたもののである。散文そのものが操作、創作によるものなのだ。それは人間の正直なありさまを打ち消すもの、おしころすものだから、人間の表現とはいえないと思う人は、散文だけではなく詩のことばにも価値を見る。(後略)
 散文は、果たして現実的なものなのか。多くの人たちに、こちらの考えを伝えるためには、多くの人たちにその原理と機能が理解されている散文がふさわしいことは明らかだ。だが、散文がどんな場合にも人間の心理に直接するものなのかどうか。そのことにも注意しなくてはならない。詩を思うことは、散文を思うことである。散文を思うときには、詩が思われなくてはならない。ぼくはそのように思いたい。

 明治期に確立された口語体の散文もまた、実は文語であるということか。表現によっては、難解な比喩や意図的に文法を無視した構造になっている現代詩のほうが、より「ほんとうの口語体」に近いのかもしれない。
 散文が異常なものであるなら、その散文を用いるあらゆる文章表現はすべて異常なものである、とも言える。うーん。そうなのだろうか。