わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

伊藤比呂美詩集

 1988年発行とあるから、20年前の作品集。やはり20年ぶりくらいで読み返しているけど、いやあ、すごいのなんの。現代詩してるなあ。
 性(生殖?)と生(生理?)に関する言葉をためらいもなく使うその姿勢は、今読むと攻撃的かつ本能的、メス的、エロティック、そして命のエネルギーに満ちあふれすぎていて、三十八歳男性・既婚・子どもなし・自営業者・頭痛持ちのぼくが読むと、かなり疲れます。言葉を使う状況が混乱しているように読めるから(それが作意なんだと思うけど)、読む方にはその混乱に立ち向かえるだけの覚悟とエネルギーが要求される、ということかな。
 10代後半から20代前半にかけてのボクが、比呂美ねーさんの詩をどんな心境で読み、何を感じていたのか。実は、なんだかよく思い出せない。ある程度の影響は受けていると思うのだが。当時の青臭かったぼくが、かなり混乱した状態にあったのは確か。自分が混乱しすぎていて、受け止め方がわからなかったのかもしれない。あるいは、混乱したまま受け止めたので、いっそう混乱してしまったのかもしれない。現代詩って、読んだときの印象がそのときの心象にとけ込んでしまったり対置されたり、という作用が小説やエッセイよりも強いように感じる。散文が客観的な「読み」を強いるようなところがあるのに対し、韻文は自己投影、自己同一化、あるいは徹底的な相克を強いるというか。アタマで感じる散文に対し、カラダとタマシイで感じる韻文というか。あ、でも二十一世紀の現代詩はもう違うかな。変容しているような。
 今の自分にとって(あくまでも「今の」、ね)大切な作品は、(あまり比べたくないし、比べることの無意味さもわかってるけどさ)若かりし頃の伊藤比呂美の作品よりも、今の、歳を重ねた比呂美ねーさんが書いた『とげ抜き』。と感じている。

伊藤比呂美詩集 (現代詩文庫)

伊藤比呂美詩集 (現代詩文庫)