コンテクスト文学論。あるいは、「場」で考える文学論。「場」は、ムーブメント、同時代、流行、そんな言葉で置き換えてもいいかもしれない。電子書籍やiTunesによるコンテンツの流通革命による文学の変質。適応の必要性。細分化の時代。あるいは、時代なき時代。源一郎さんはここに新たな可能性を見出しているみたい。
いっぱい引用したい部分がある。それくらい今回は内容が濃かった。『ニッポンの小説 百年の孤独』の川崎徹論で違和感を感じてから源一郎さんの作品はすなおに読めなくなってしまっていたのだが、今回は違う! 『さようなら、ギャングたち』や『ゴーストバスターズ』のラストとは別のタイプだけれど、おなじくらい衝撃的な感動、というか感銘を受けた。
まずは、いきなり源一郎さんの言葉でないものなのだが、作中で引用されていた佐々木俊尚という人の『電子書籍の衝撃』という著作からの引用部分。これもまた別の媒体の引用なのだけれど。ブライアン・イーノのインタビュー。
『もはや音楽に歴史というものはないと思う。つまり、すべてが現在に属している。これはデジタル化がもたらした結果のひとつで、すべての人がすべてを所有できるようになった』
つづいて、「現代詩文庫」第一次完結の際に源一郎さんが書いたエッセイの引用。現代詩の分野にも、本質的にはイーノが言っていることとおなじことが起きている。ただ、音楽は衰退こそすれども産業的には絶滅はありえないように思えるが、現代詩は産業的にほぼ成り立たなくなっている、という点が大きく異なっているのだが。
これはとても不思議な風景に見える。ぼくは、ここに収録された視野詩集を、「同時代」の作品として読んだ。そのような読み方しかしなかったのだ。ところが、いま、この文庫を読む若い読者、若い詩人たちは、この百冊を「任意」の巻から読む、歴史や文脈と一切関係なく読むのである。
かつて、これらの詩集を読んだ時、ぼくは、その「個性」の違いに驚いた。いま、読み返すと、逆に、それらがみな、あまりに似通っていることに驚く。まるで、ひとりの「詩人」が書いた詩であるかのように----。
まあ、「あまりに似通っている」には異論もあるのだけれど、それはテクニックの問題かもしれない。扱っている主題の底に流れていた何かが、おそらく百冊分、すべておなじものなのだ。
つづいて、この引用に対する、現在の源一郎さんの考察。時代という前提によって現代詩という分野が、あるいは産業が、成立していたのだと、読者のぼくも再認識。
ぼくが読んでいたのは、個々の「詩」えはない。「コンテクスト」と「詩」が合成されたなにか、だ。そして、それこそ「詩」にちがいない、とぼくは思い込んできた。
そして、今回のラスト。小説という芸術形式もまた、他の芸術同様に、作品を通じて行われる他者とのコミュニケーションの一手法なのだ。
どのような条件の下でも、そこに複数の人間がいて、繋がろうという意思があるなら、小説は生きられる。
小説とは、共同体のひな型、もっとも小さな共同体であり、やがてやって来る共同体の内実を予見するの力を持っている、とぼくは考える。
結論を出すのは早すぎる。ぼくたちは、ようやく、自由に読む術を手に入れようとしつつあるのだから。
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