わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

手放すのではなく

 五時四十分起床。寒さはほとんど感じられなかったが、習慣で、目覚めと同時にエアコンを作動させた。いざ布団から抜け出してみると、この選択が合っていたことに気付かされる。三月三日、ひな祭りの日だがまだまだ冬だ。

 三月三日は耳の日でもあるので、耳掃除をした。

 仕事。某生命保険会社の案件を少し進めてから、別の案件に取り掛かる。昨日はどうなることやらと不安だったが、少しだけ先が見えてきた。

 義父母がもってきてくれたお祝い用のちらし寿司で昼食。

 十五時三十分、仕事の手を止めてランニングへ。右ヒラメ筋の肉離れが治って初めてのランとなる。ちょっと心配だったので短めにしておいたが、まったく問題ない。沈丁花ミモザが咲くと、花粉の季節だと感じるようになる。だがぼくは、杉の花粉症はほとんど症状がない。

 

 

 大澤真幸「〈世界史〉の哲学 現代篇29 アメリカ独自の哲学の出現」(「群像」2024年3月号掲載)。プラグマティズムの発生を、アメリカで発達した資本主義の観点から分析している。

 永井玲衣「世界の適切な保存(21)手放す」(同誌掲載)。パレスチナ問題、戦禍に苦しむ人々に心を痛めている様子がひしひしと伝わってくる。試験のための世界史の暗記で覚えたパレスチナのことではなく、現在進行形で起こっていることとして、あるいは過去の怨恨の連鎖としてそれを捉え、理解し、自分の言葉で「保存」することの大切さ。まずは、自分。安易に手放さず、まずは保存してみる。コミュニケーションとは、相互理解とは、つまり言葉を(手放すのではなく)手渡す行為は、その先にある。少し引用。

 

 言葉とはつねに他者に対して手渡されるものだ。その意味で、言葉を手放してはいけない。言葉を失ったとしても、言葉をあきらめないことをつづけなければならない。普通じゃない、普通じゃない、これは普通じゃない、普通とは何か? という、問いではなく集中力を霧散させてしまうような誘惑と闘って、この感情を適切に保存しながら、手渡していくことを諦めない。