わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

風がぬるい

 五時四十分起床。桜が散る頃のような気温。新聞を取りに外へ出ると、風がぬるかった。本当に今は二月か、と疑いたくなる。この時期はまだタイツが手放せないのだが、今日は履かなかった。

 午前中は掃除、アイロンがけと家事に専念。葵が窓際で日向ぼっこをしている。窓辺の猫。春だなあ。

 午後は妻と吉祥寺へ。無印良品で洗剤、北欧雑貨店の「フリーデザイン」でリサ・ラーソンの動物陶器を鑑賞し、ユザワヤで画材、文具。決算セール中の成城石井であれこれ食材を買い込んで帰宅。綿の入っていない変形MA-1を着て家を出たのだが、すぐ脱いでしまった。シャツ1枚で十分。

 夕食は成城石井のお惣菜を食べた。

 

 斉藤環×福尾匠「病んでいるひとの病んでいない部分に届く言葉」(「群像」2026年3月号)の後半。ちょっとおもしろかった部分を抜き書き。

 

哲学者は単にそれぞれ新しい「言語ゲーム」を作るということではなく、現に社会の中に存在する言葉のネットワークの中に、別のロジックで動いている部分を発生させる

人間は数年単位で謎のアイデアをずっと頭の中で転がし続けることができる

謎のアイデアをえんえんと転がせるのは、人間には目的に縛られない思考ができるから

プロセスを語れる思想・言語あるいは精神分析用語は今もない(中略)。みんな構造は語りたがるけど、プロセスは語れない。このプロセスこそがダイアローグのポイント

病んでいる人の病んでいない部分、その人が持っている健康さというリソース、もしくは人的リソースもあるでしょうし、いろいろなものがあるけれども、そこに届くことがケアなんです

 いずれも、思考なり社会構造なり患者との向き合い方なり、それらの中に「疎」な部分、つまり余白があるからこそ、ずらしたり、転がしたり、プロセスにこだわったり、患部とは違う部分に目を向けたりすることができる。「疎」の効用に注目することこそ、これからのぼくたちに必要なのかもしれない。

 

 

 

置き配的

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