- 麦次郎ひとまず問題なし事件
- 黙々読書事件
- 久々の西荻牧場ぼぼり事件
- 7km走って2km走り足す事件
「2 巻き込み 小森はるか/瀬尾夏美の模索」。
芸術家を名乗り切れず、美術マーケットで販売できる作品をつくらない「(自称)アーティスト」について言及している。著者は、これを出来事の作品化と理解し、さらにこのコト的・体験的作品の「液状化」を指摘する。こうなってくると、「芸術とは何か」がさっぱりわからなくなるのだが、著者はネルソン・グッドマンの『世界制作の方法』という作品を引用しながら、アートの定義づけも肯定も否定もすることなく、ただただ作品(というよりは行為?)の完成めがけて闇雲に突っ走ってしまう「アート未満」の活動について考察をはじめる。
闇雲に突っ走る、というとインプロビゼーションなどの即興芸術を連想してしまいそうになるが、アート未満の活動の場合、コンセプトも着地点も曖昧なまま、という点が大きく異なる。思い描いていた着地点と違うところに行ってしまった、というのは非常にスリリングなのだけれど、曖昧な出発、曖昧な過程、曖昧なフィニッシュ、そのすべてを見せられるとなると、これは鑑賞に堪えない。現代アートは、一部すごく好きな作品もあるのだけれど、一方で敬遠したい領域も確実に存在している。それが何で、なぜなのか、今までじっくり考えることはなかったのだけれど、なんだか答えが見えかけてきた気がする。そして曖昧な出発・過程・フィニッシュをどう受け止めるべきか、ということも、わかるのかもしれない。
五時四十五分起床。晴れ。やや風が強い。
動物たちの世話を済ませてから(コジコジの換羽が最高潮で、抜けた羽毛の片づけが大変)、マンションの管理組合の仕事。
午後、西荻窪の和菓子店「青柳」で柏餅。クイーンズ伊勢丹で牛乳など。
夕方、麦次郎が約三ヵ月ぶりのてんかん発作。猫トイレに入ったとたんに起きてしまい、猫砂のなかで痙攣。そのまま失禁。少し落ち着いてトイレから出てから脱糞。しばらく脱力。いつものことなので冷静に処置。
夕食後、ランニングへ。11kmを1時間で。終了後、ストレッチと入浴を済ませ、さて麦はどうかな、と様子を見ていると、ゴキゲンそうになってはいるのだが、肉球や耳がいつもよりカッと熱くなっていることに気づく。発熱しているのだろうか。元気はあるので心配はなさそうだが、しばらく注意深く観察することに。夜中も何度か起きてチェックした。大丈夫そうかな。容体が急変したら病院に行こうと思っているが、その必要は今のところなさそう。だが油断は禁物。
(というわけで、この日記は翌朝に書いている。もう肉球の熱さはなくなっており、元気に家中をうろついたり、外に出せと騒いだりしている)
麦次郎、加齢で足の動きが悪くなりつつあるので、猫トイレを低くて入りやすいものに変えようかと思案中。コレかなあ…。ただし、腰もよくなくてかがんで放尿するのが難しくなっているので、しっこ失敗対策が必要。グルリをダンボールかアクリル板で囲み、そこにペットシーツを貼ろうかと思っている。
「群像」2017年5月号掲載。
高校時代の恋愛と友情の記憶。平和だなあ。
五時三十分起床。早く目が覚めるのは猫が大騒ぎするから、という場合が多いのだが、今朝は静かだ。とはいえ、やはり麦次郎が気になったが、いっこうに騒いでいる様子はない。いつもどおりの時間にごはんを与え、トイレの始末をした。コジコジは今朝も早くから独り言をいいつづけている。かご掃除の最中、外に出ようとしなくなったのはなぜだろう。カゴの中でおしゃべりしているか、お気に入りの洗濯ばさみをくちばしでカンカンと叩いて遊んでいるか。
身支度やら動物の世話やらを済ませ、さて仕事、と思ったが、アレルギーだろうか、今朝は左目が腫れてしまい、かゆみも強く、コンタクトレンズが入らなかった。急ぎの仕事はほぼ片づいている。これ幸い、と病院に行くことにした。しかしかかりつけの荒木眼科もサブ的にお願いしている西荻北眼科も今日は診察していない。しかたないので、新規でオープンしたばかりのところに行ってみた。デジタルサイネージとタブレットを使った視力検査など、最新の機器に驚いたのだが、医師(おそらく院長)がぼくよりかなりわかく、ツーブロックのセミロン毛で(ぼくはツーブロックじゃないけど長さはおなじくらいだ)、蟹江一平によくにた雰囲気だったのでさらに驚いた。目の腫れは大きな問題はないしもう治りかけらしいのだが、それよりも、数年前に荒木眼科で指摘された網膜剥離の超初期症状みたいなものが多少悪化していたらしく、また眼底検査をすることになってしまった。結果は、手術するほどのことではないのだが、リスクはあるので年1回ペースでの検査は必要とのこと。最近特にひどくなっている飛蚊症の原因でもあるらしい。眼底を撮影した映像を見せてもらったが、縦に長くて白いヒビのようなものがしっかり映っていた。これが大きな穴になると大変なことになる。そうなる手前でレーザーでふさげば、飛蚊症も落ち着く可能性があるらしい。なるほど。白内障もわずかに見られ、おまけに緑内障の危険もあるとかで、後日改めて検査したほうがいいだろう、とのこと。うーん。
検査のためにさした麻酔のような目薬の副作用で強烈な明視、そしてピントのズレに苦しみながら、なんとか帰宅。
先日、京都のお米屋さんから取り寄せた、京都ではなく熊本産のお米「森のくまさん」で昼食。水分少なめでしっかりした味だった。うまし。食べながらNHKの「ひるブラ」を見る。ぼくとおなじ茨城県出身の磯山さやか(といってもぼくの住んでいた古河市は茨城なのか栃木なのか埼玉なのかよくわからん位置にあって茨城のメインストリームからはずれた異端的存在なのだけれど)が吉祥寺を取材していた。
午後は妻と吉祥寺へ。磯山はいなかった。画材や事務用品、生活用品などを買い、ぼくは帰宅。妻は麦次郎の皮下輸液セットを買うため、そのまま動物病院へ。
夕食は吉祥寺アトレにある加工肉店「NICE TO MEAT YOU.KODAMA」でチキンの薫製、そしてソーセージと牛スネ肉ミートパイのセットを食べた。期待をうわまわるおいしさ。しょっぱすぎたり脂っこすぎたり、ということがまったくない。純粋に肉のおいしさを味わえる。
大分前に買ったのだけれど、しばらく積ん読してしまった。
朝日新聞の「折々のことば」を担当している臨床哲学者が、震災時などに若手を中心としたアーティストたちが、芸術は社会のつまはじき的な意識を心のどこかに抱きつつも作品やボランティアを通じて社会参加していった、ある種のムーブメントとも呼べる現象を分析している。その出発点となっているのが、2001年に発表された川俣正というアーティストの著作『アートレス --マイノリティとしての現代美術』にあるこの文章だ。孫引きになるけど引用。
アートが社会的に何の役にも立たないことにおいてのみ、社会に役立つという逆説的な意味合いから、それを引き受けつつ、もう少し実践的な場でその存在のリアリティを確かめる方向に来ているのではないかと思う。
この逆説がクセモノだ。「何の役にも立たないこと」が現代芸術を指すことは明白だし、実際、現代芸術の美術展に行くと、美という観点からの観賞を激しく拒絶され、社会的な問いかけがそこにある、と主張されてもそれが独りよがりにしか思えず、またそれが社会のシステムの一部あるいは影響を与える異物として確実に機能するとも思えず、そのすべてから孤立したような感覚にどうしても違和感を覚えてしまうのだが、そんな現代芸術のあり方が、どうやら東日本大震災という人類史に残るであろう大災害を気になのか、それとももっと前からなのか、変質してきている。この動きには興味がある。ひょっとしたら、インターネットを媒介にした人間同士のゆるいつながりや、ネットやPCを含むテクノロジーの進化によってコミュニケーションにタイムラグがほぼなくなり世界が均質化し、社会のあり方そのものが変質しつつあることなども関係している、のだろうか。まだ第一章めを読んだだけなのでそこまではわからないのだけれど。ヒントは、第一章め「「社会」の手前で」の後半の、この部分にあるような気がする。ちなみに、引用中にある「彼ら」とは、鷲田が関わった大阪での管理者不明な地下空間を利用したアートプロジェクトの参加メンバーのことだ。
集団を、内部に向けて終結させるのではなく、未知のものへと開いてゆくこと。たがいに差異を深く内蔵したまま、ゆるやかではあるがけっして脆くはない紐帯をかたちづくること。そういう〈未知の社会性〉の芽生えに、〈自由〉の新しいかたちの生成に、彼らは賭けていたのではないか。
アートレス―マイノリティとしての現代美術 (ArtEdge)