わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

田中小実昌『アメン父』

 神父だった父の写真を見て、コミさんはあれこれ推測(という言葉は似合わない気がするが)を広げていく。時にそれは信仰とは何なのかについてまで話が及ぶ。コミさんは、信仰とはからっぽになることだと断言する。引用。ちなみに「伊藤八郎」とは、コミさんの父親の弟子。

 伊藤八郎は若いときの父や実の祖父母の写真のコピイを送ってくれたが、このもとになる写真は、父がどこかにしまってたのを、父が死んだあと、伊藤八郎が見つけたのだろうか。(中略)
 だが、父はそんな写真をどこかにしまったという気持も、また、それをすっかり忘れていたということもなかったのではないか。まるっきり、なんにもなくて。(中略)だいいち、いまいそがしいのは自分の仕事ではない。アーメンとイエスに忙しいのだ。これは、この世で大事なこととされている充実みたいなものではない。充実とは反対のことだ。光が満ちあふれていても、自分のからだが光でいっぱい、光で充実してるのではない。あるのは、ただ光だけで。でも、自分はからっぽというのは、仏教あたりでも、宗教ではあたりまえのことだろう。からっぽになれないから煩悶するのだ。光にあたって、くらさと罪が身にしみる。ぼくなんかがデカい口はきけないが、充実した人生をおくってると言うような人は、光もくらさもなにも知らない人だろう。