わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

堀江敏幸『郊外へ』

「灰色の血」。パリの掃き溜めのような状態になっている郊外都市ラ・クルヌーヴ市の荒廃と、そこで行われた作家フランソワ・ボンの文章教室。きれいごとでない、真実と不満から生まれる破壊的な文章エネルギーが少年たちから爆発する。親戚三人をアウシュビッツで亡くしたというジョルジュ・ペレックの『ぼくは覚えている』という作品の影響のちから、そしてセリーヌの、郊外に対する鋭い視線。またまた今日も引用。

「郊外は忘却の場、忘れられた場所だ」と、じぶんの口から言わざるをえない、ニュアンスを欠いた起伏のない日々を忘却から救う手だてがそこに示唆されたのである。故国を去ってフランスに来た者たちは、ペレックに学んでこう書いた。「黒い森をほとんど裸で駆け抜けたことをぼくは覚えている」、「穴の開いた青いサンダルをわたしは覚えている」、「すでに母のお腹にあったあの太陽をぼくは覚えている、生まれつきぼくの肌は焼けているのだ」。(中略)そしてまた、ペレックとならんで自己表現欲を青賦引きがねとなったのは、セリーヌのこんな文章だった。

哀れなパリ郊外、みなが靴底をぬぐい、唾をはき、透りすぎていくだけの、都市の前に置かれた靴ぬぐい、いったい誰がこの哀れな郊外を思ってくれるのか。(中略)もちろん、誰もいやしない。粗野な郊外、ただそれだけの話なのだ……いつも漠然と不穏な考えを温めている喧嘩腰の郊外、しかしそんな計画を推し進め、やりなおす者などひとりもいやしない、死ぬほど病んでいるくせに、死ぬことだけはないのが郊外だ。

 つづいて、少年の文章エネルギーの爆発する部分。

「だれだって十七歳の時はマジじゃない、だがそれにしてもだ」という刺激的な警句を折り込むマニュフェストを書いた男子生徒は言う。十七歳といってもそれぞれに生活がある、時間の流れがちがう、退屈な十七年もあればそうでない十七年もある。パリの十七年とル・クルヌーヴの十七年じゃ、長さがまるでちがうんだ。郊外から出るのは難しいことじゃないってきみは言うのかい? 青白赤で塗られたRERに乗れば、たった七分でパリに着くって? けれどパリにむかって走るこの青と、白と、赤に貫かれた灰色の郊外は、ぼくを離れはしないんだ。