裁判は終了。だが、次は押し寄せる興味本位の人たちという新たな壁が…。
哲学、特にぼくの関心のある認識論がGODのベースになっている部分があるのがおもしろい。世界が存在しているということは、世界に内包されているぼくらにはどうやっても認識することができない。認識できているのは世界そのものではなく、ぼくらの感覚を通じて構築された単なる像だ。像は世界そのものではない。だからぼくらは、世界の存在を証明することができない。でも、それじゃ不安だ。だから、神が発明された。しかしニーチェによれば、神は死んだ。ならば、どうする? ぼくら人間に残された手は、正直言ってSFくらいしか残されてない…ってな内容の評論を高校生の時に読んだのが衝撃的で(宝島社、当時はJICC出版局って名前だったけれど、ここから発売されていたSFをテーマにした新書に掲載されていた。まだ本棚の奥のほうにあるはず)、ぼくはいまだにその感覚を引きずっているし、この考え方に囚われ続けている。ま、80年代当時と比べると、神の存在は復権されているような気もするんだけどね、2000年代あたりから。