「群像」2020年12月号掲載。
キェルケゴールの「絶望」を乗り越えようとした思想として、ニーチェが上げられている。「永劫回帰」を、著者はルサンチマンやペシミズム、ニヒリズムに対峙するものであるとし、その根拠について考察を展開している。ぼくはニーチェをあまり読んでいないけれど(『ツァラトゥストラ』は1/4くらいで止まっちゃった。『悲劇の誕生』は二、三回、そして一部は原文で読んだ。あと『善悪の悲願』は読んだはず。内容忘れたけど)、だからなのか、永劫回帰はペシミズム的な思想なのだと解釈していた。だが、永劫回帰は「生の肯定」なのだという。今月の連載をすべて読んでも、まだそのイメージを拭い捨てることができずにいる。その理由は、著者も書いているが、そう定義することに限界があるから、なのかもしれない。ちょっと長いが引用。
ここまでの展開の中で、ツァラトゥストラは、生を肯定する方法を教えてきた。ルサンチマンを引き起こす生の否定に対して、生を肯定する方法を、である。しかし、述べたように、ここまでの展開には限界がある。肯定しきれない生があるからだ。この状況を乗り越えるためには、肯定を否定へと引きもどすのではなく、肯定を過剰な肯定へと発展させるしかない。永劫回帰の概念には、その可能性が秘められている。と、同時に、そうした展開は、この概念の危険な誤使用への可能性をも開くことになるのだが……。