わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

それを自覚していない

 五時四十分起床。起床直後に測る血圧が、ここ数日高い。冷え込んだ気温のせいなのか、それともほかの不具合なのか。

 仕事。午前中は九段下で新規案件の打ち合わせ。最近急増しているCSR系。地域貢献だの文化貢献だの、といったかたちではなく、本業をつうじての社会貢献という視点を持つことが一定以上の規模を持つ企業にとって、ほとんど義務になってしまっている状況。だが、社会の役に立たないビジネスなんて、存在しない。なんらかのカタチで社会にかかわり、価値を提供できるからこそ、収益を出すことができる。ただ、多くの企業がそれを自覚していない。また、メッセージとしてそれを発信しようとしない。そこでぼくみたいな職業の者が役に立つわけだ。ぼくもまた、こういうかたちで社会に関わり、小さいながらも、価値を提供できている。

 雨のなかの外出となった。秋の長雨という言葉があるが、そんな降り方は夏の名残が色濃く半袖でなければ過ごせない時期に、すでに一度あった。今ごろの、冬の兆しにばかり目が行く季節の雨は、そうそう長くは降らない。だが、雨音にも降り方にも、冬は感じない。ただ、気温だけが下がっている。

 午後は別件に取り掛かる。

 夕方、喘息の治療のためにかかりつけ医へ。喘息はコントロールできているが、後鼻漏の症状がある程度改善されたもののしぶとく残っていることを訴えたら、アレルギーの薬が増えた。

 

 皆川博子「針」(「群像」2021年11月号掲載)。戦前生まれのベテラン作家が、自身をモデルにしたらしい主人公の半生を語る。お嬢様。おもしろいのは、記憶をたどりつつも、現在の、九十代でコロナ禍を過ごすことになってしまった状況を巧みにフィルターとして利用している点。時代の価値観やら戦争やら、そしてコロナやら、忌まわしきものにつきまとわれつづけながらも生まれ続ける、断片的な喜びやおかしみ。最後は、自分自身が忌まわしさとおかしみを同時にかかえこんだめんどくさい存在になりつつあることを暗示しつつ、タイトルと連動した詩の引用で終わる。