わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

保坂和志「鉄の胡蝶は記憶の歳月の夢に彫るか(49)」

「群像」2022年9月号掲載。章タイトルは「ネッカーの立方体と占有あるいは奥州合戦に総勢45万機超え」。内容はこの章タイトル通りなのだが、これらが微妙につながったり切り離されたりしながら迷走している。そこがおもしろいのだけれど、そういう読み方(というか面白がり方)を強いるこの作品は、例えば推理小説が好きな人には受け入れられないんだろうなあ。ちなみにぼくは、推理小説は基本的に苦手。

 まだ全部読んだわけじゃないんだけど(あと数ページ残ってる)、面白い部分があったので引用。平安末期、つまり黎明期の武士たちと比べて室町時代の武士たちは社会的な地位が確立されわかりやすい存在になった、その様子が現代におけるお笑い芸人におけるそれと煮ている、と主人公(語り手)は主張する。そしてこの考え方が、小説家に、さらにロックミュージシャンへと派生していく。その展開の論理性と唐突さのバランスが絶妙で、この文章こそロックだよ、と感動。

 

 小説家だって昔はそうだった、歌手もそうだったし、ロックなんかもろにそうだった、親にギターを買ってもらって、親にギターを教わってロックをはじめるロックミュージシャンはロックじゃない、親と対決するところがロックのはじまりだ、ロックのエネルギーは既成の価値との軋轢がエネルギーであり、軋轢を起こす気のないヤツはロックをはじめなかった、ロックはいつからたんに音楽の一ジャンルになった、それ以前にロックが音楽として認知されてしまった、もうそこでロックはろっくではなくなっている。