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わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・哲学・思想の読書日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

今日の事件簿

日記
  • 麦次郎ちょっとしつこいですよ事件
  • コジコジ出ないのか事件
  • ひたすらに、ただひたすらに事件
  • スロージョグのつもりが少しだけペースアップ事件
  • 鵜呑みにしたらあかんな主体的に判断せな事件

浄水器のカートリッジが切れたのでAmazonでポチった。

 

 

 

デビルイヤーは地獄耳♪

日記 仕事 永井豪 インコ デビルマン マジンガーZ

 五時四十五分起床。冬のような春の嵐の後の晴天に刺激されたか、朝から麦次郎がしつこくうるさい。三度も外に出した。

 午後から外出。打ち合わせまで時間があったので池袋西武の上の階にあるロフトでペンを買おうとしたのだが、結局何も買わず。別館で永井豪展(といっても物販イベントだが)をやっているのを知り、会場に行ってみた。等身大(原寸じゃないよ)のマジンガーやアニメ版デビルマンが、売り物として展示されていた。デビルマンはアニメのエンディングの時のように鉄骨に腰掛けているのが泣ける。

 後楽園で打ち合わせ二発。

 十八時過ぎ、帰社/帰宅。そして残務処理。仕事しながらコジコジを放鳥。まだ換羽はつづいている。

 読書はは古井由吉の『ゆらぐ玉の緒』を少し読んだ程度。あとは雑誌ばかりだった。

 

 

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f:id:catkicker001:20170328145145j:plainとか

 

 

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古井由吉『ゆらぐ玉の緒』

読書日記 小説 日本文学

 そして花の記憶は幼少時代の空襲の記憶へ。恐怖や怒りという視点ではなく、そこにいるものの日常の一部として描かれる。たとえ破壊されても、生活がつづくかぎり、それはやはり日常であるのだ、と感じさせる、淡々とした描写。生活は終わらない。この視点や状況に対するスタンスは、「この世界の片隅に」に通じるものがあるかも。…って、映画は観てないけどね。原作はもちろん読んだ。

 

ゆらぐ玉の緒

ゆらぐ玉の緒

 

 

古井由吉の作品はこちら。

 

 

 

みぞれの吹雪、とは妙な表現だけれども

日記 インコ 天気 仕事 ランニング

 五時四十五分起床。みぞれが吹雪いている。という表現はおかしいのだろうが、そうとしか言えぬ荒れ模様の空。台風の朝とおなじくらい、ゴミを出すという行為に不安を感じたが、まあ、大丈夫そうだ。空の荒れはほんの一瞬、あるいは夜中から少しずつ強まっていたのかもしれないが、今が盛りで、あとは回復に向かうのだろう。騒ぐ麦次郎に外を見せたら納得したようで、すぐ眠りについた。と思ったらウンコをカーペットになびられた。コジコジは天気などまるで関係ないかと思ったが、少しだけ食が細いようだ。

 十時、麦次郎に皮下輸液を済ませてから銀行へ。あれこれ事務処理。みぞれの吹雪、とは繰り返すが妙な表現だけれども、これはもう過ぎ去ったようで、冬のつらさはすでに感じないものの、霧雨が強い風で横殴りに降りかかり、時折しなる傘をより力を込めて握り直したり、風の吹く方向へ強く向け直したり、と、雨足自体は弱いものの、台風の近づいている時のような差し方を強要される。

 パンで昼食。

 午後は某案件の資料の読み込み。ものすごく古い。バブル期あるいはそれがはじけた直後に書き起こした文章をつぎはぎつぎはぎしているようで、「テレカ」だの「イオカード」だの、懐かしい単語が続々と出てくる。挿し絵のタッチも昭和を思わせる。

 夕食は豚肉しゃぶしゃぶのスイートチリソース、午前中に銀行回りをしている時についでにルミネの地下で買ったタイの春巻き(米の皮の春巻きを揚げてある)と、カップに入ったタイのコロッケ(ちょっとスパイシーで塩辛い)。ご自宅エスニックがつづいている。エスニックにしたのは、日曜日に買ったパクチーが大量に余ったから。

 仕事が落ち着いているので、夜はランニングへ。スロージョグで7kmほど。40分かけた。1kmあたり6分ちょい、くらいのペース。雨上がりの湿った空気が夜気に冷やされ、吐く息が過剰に白く染まる。

 

↓春巻きはリピートしたいお味。味よりむしろ食感か。もっちもちの皮がヤミツキになる。

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↓ねむい鳥。

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古井由吉『ゆらぐ玉の緒』

読書日記 小説 日本文学

 昨年「新潮」に連載されていた連作。連載中も読んでいたのだが、二月に単行本が出たのでもう一度読むことにした。

「後の花」。ひとまず前半。早く咲いたのに寒さに苦しめられるこの年の桜、そして桜にまつわるさまざまな記憶が、複雑に交錯していく。その交わりの中で、「老い」という語り手に押し寄せているらしい事実がおぼろげに像を結ぶ。肉体的な衰えからよりも、膨大な記憶と感情の蓄積から生まれる、というよりも生まれやすくなっている、思いがけぬコンテクスト、その偶発的な美しさ。

 

 

ゆらぐ玉の緒

ゆらぐ玉の緒

 

 

古井由吉の作品はこちら。

 

 

 

ダラ

日記 インコ 食事 カルディ エスニック

 六時三十分起床。空も室内も冷やす雨。今日もしっかり休めるのだが、出かけるのは少々気の引ける降り方に軽い悔しさを感じながら身支度し、例によってうるさく騒ぐ麦次郎の相手をし、ゲロを忘れた換羽中のコジコジのゲロではなく抜けた毛でいっぱいになった鳥カゴを掃除する。

 昼食はカルディでかった「麺と混ぜるだけクミンソースモンゴル風」を、素麺にかけ、パクチー、長ねぎ、ササミを具にして食べた。クミンというとカレーのスパイスだが、豆板醤がベースになっているので中国な雰囲気が味の根底に漂う。

 午後は昼寝など。ダラダラ過ごす。雨もまだダラダラと降りつづけている。

 夕食は牛もも肉のステーキ。サシの入ったものより、赤みのしっかりした肉のほうが好きだ。

 

www.kaldi.co.jp

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三浦雅士「言語の政治学」(9)視覚の零度

読書日記 思想 文学 哲学 評論

「群像」2017年4月号掲載。

 仏教の本覚思想や進化論、さらにはヘルマン・ヘッセトーマス・マンの作品の決定的な違いなど、さまざまなソースを引っ張り出しながら、原言語としての視覚について深く論じているのだけれど、いろんなものに言及しすぎていて、ちょっと理解がおよびきれない。でもまあ、要約すれば、視覚があってこそ世界は、そして言語はなりたつ。そして言語より以前に、あらゆる生命は視覚を獲得した瞬間から、相手を「だます」というコミュニケーションをつづけてきた、ということかな。だますというと聞こえは悪いが、あらゆる芸術表現は目の前に仮想的な世界を構築するという行為であって、それは架空である限り、鑑賞者をなんらかのかたちで(作為的であるにせよそうでないにせよ)だますという使命を担わされている、と言えなくもないわけだな…。

 

 

群像 2017年 04 月号 [雑誌]

群像 2017年 04 月号 [雑誌]

 

 

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