わたしが猫に蹴っとばされる理由

文学・芸術・哲学・思想の読書&鑑賞日記が中心ですが、雑食系なのでいろいろ取り上げてます。猫もいるよ♡

歌の世界からはほど遠い/湯シャン三日目

 五時四十分起床。雨がやがて雪に変わったが、今日はクリスマスイブのサイレンナイホーリーナイというわけではなくおはぎを食べる彼岸の時期で、おまけに雪も雪というよりはびちゃびちゃのみぞれ、と歌の世界からはほど遠い。

 仕事。某案件の企画書。午後は渋谷で打ち合わせを済ませ、すぐ西荻の自宅に戻ってから、こんどはリモートで別の案件の打ち合わせ。電力が逼迫しているというので、暖房は弱めにした。

 仕事中、突然ATOKが入力不能に。原因がわからない。仕方ないのでMac純正の日本語変換に切り替えた。少し違和感があるが、変換効率は大して変わらないかもしれない。

 

 保坂和志「鉄の胡蝶は夢に記憶は歳月に彫るか(44)」(「群像」2022年4月号掲載)。ぼくは保坂和志が猫を外で飼うのを礼賛していると捉えられかねない発言や描写に対しては正直いって賛同できないのだが、それでもこの描写の美しさには心打たれた。というより、環境が許されるのであれば、そうしたいという願望が高まってしまう。ちょっと引用。

 

 シロちゃんは言うまでもない、花ちゃんも地面としっかりつながっていた、土、あるいは大地、全部が同じなのだ、海の水も川の水も雨の水も水道管の水と同じなのかもしれない、シロちゃんも花ちゃんも地面を知りそこに吹く風を知り、そこで聴こえる鳥の声や虫の声を知っていた、外を知る猫の体には自然が灌流する(以下略)

 

 猫を地面に置くとそれは自然に風も水も呼び寄せる、私の中の土や風や木への信頼が猫の上に投射される、土や風や木への信頼のスクリーンに猫が投影される、その二つが重ね映しになる、私は土や風や木への信頼を生地として猫を考える、その二つが心の同じ場所で思い起こされるようになる、……これらはすべて言い方にすぎないということはない、死をとても悲痛なこととして考えるとき、死で別れた相手を思おうとする心の構えをとろうとするだけですでに絶望の色を帯びた風景ないしは背景ができている、それは私の事情であって相手の事情ではない(以下略)

 

 

 

 

 

 湯シャン三日目。雨が降ると以前は髪がいうことを聞かなくなり大変なことになっていたが、今日はそうでもなかった。これが効果なのか違うのかはまだ確信が持てないけど。